睡蓮亭銃声

そしてロウソク。ロウソクがなくてはね。

舵の乗った小舟を海の方へ押していく:『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』練習問題6

これまでのあらすじ:

simiteru8150.hatenablog.com

・過去一で苦しい戦いになった。

 

〈練習問題⑥〉老女

 今回は全体で一ページほどの長さにすること。短めにして、やりすぎないように。というのも、同じ物語を二回書いてもらう予定だからだ。
 テーマはこちら。ひとりの老女がせわしなく何かをしている──食器洗い、庭仕事・畑仕事、数学の博士論文の校正など、何でも好きなものでいい──そのさなか、若いころにあった出来事を思い出している。
 ふたつの時間を越えて〈場面挿入インターカット〉すること。〈今〉は彼女のいるところ、彼女のやっていること。〈かつて〉は、彼女が、若かったころに起こったなにかの記憶。その語りは、〈今〉と〈かつて〉のあいだを行ったり来たりすることになる。
 この移動、つまり時間跳躍を少なくとも二回・・・・・・・行うこと。
一作品目:人称── 一人称(わたし)か三人称(彼女)のどちらかを選ぶこと。時制──全体を過去時制か現在時制のどちらかで語りきること。彼女の心のなかで起こる〈今〉と〈かつて〉の移動は、読者にも明確にすること。時制の併用で読者を混乱させてはいけないが、可能なら工夫してもよい。
二作品目:一作品目と同じ物語を執筆すること。人称──一作品目で用いなかった動詞の人称を使うこと。時制①〈今〉を現在時制で、〈かつて〉を過去時制、②〈今〉を過去時制で、〈かつて〉を現在時制、のどちらかを選ぶこと。

 なお、この二作品の言葉遣いをまったく同じようにしようとしなくてよい。人称や動詞語尾だけをコンピュータで一括変換してはいけない。最初から終わりまで実際に執筆すること! 人称や時制の切り替えのせいで、きっと言葉遣いや語り方、作品の雰囲気などに変化が生まれてくる。それこそが今回の練習問題のねらいだ。

 

 

一作品目:【三人称/過去時制】

 

 どうにか天辺を探してやろうと見上げるものを圧倒するような果てのない本棚の壁を背に、彼女は文机に座り、傍に積み上げたぶ厚い辞書や、小難しい専門書を時おり参考にしながら、紙の上に文章を書きつけていた。興奮が先走っているのか、それとも鉛筆と紙という筆記用具が懐かしいのか、書き文字はどうにも悪筆で、彼女自身も書き上げてからさっと目を通さないと意味そのものが揮発してしまう危険性をうすうす感じていた。それにもかかわらず手を止めなかったのは、頭の中でひらめいた光の色が、これまでにない輝きと彩りを備えているものだという予感があったからだった。
 この熱狂はいつ以来のものかしら、と彼女は手を動かしながら、それまでをふりかえった。ダンセイニ卿と出会ったころ、はじめてものを書いたとき、進路に悩む大学生へ返事の手紙を書きあぐねた夜……今に至るまで、遠い時間が隔たっているようにも、目を閉じてふたたび開けるまでのほんの少しの時間しか経っていないようにも、彼女には感じられた。この場所では、そういった時間感覚のものさしはたいして意味をなさないと〈利用者〉のひとりである彼女もまた心得ていた。
 〈利用者〉たちは、気がつけば自分たちが存在していたこの場所のことを「図書館」と呼ぶことが多かったが、そう呼ばないものも大勢いた。地下墓地、集合的無意識アーカーシャ年代記、迷宮、世界樹、辺獄、世界の果て。彼女はシンプルに「森」と呼んでいた。書物の森。書に親しむものであれば誰でも、一度は思い浮かべる夢。思い浮かべたあとに、笑って捨てる設計図、そのものの中に彼女やその他の人間が存在していた。
 薄暗い空間の中から、深紅の絨毯をゆっくりと踏みしめる足音を聞いて、彼女は手を止めた。「図書館」あるいは「森」は無限ともいえる広さで、人と人がすれ違うことはまれだったが、絶無というわけではなかった。
 その姿を見て、彼女は懐かしさを覚えた。姿を現した初老の男は、異国の人ではあったが、彼女の先輩であり、戦友であり、商売敵であり、つまりは同業の人間だった。記憶よりだいぶん若い気がしたが、時間のものさしがあやふやなこの場においては、見た目の老若はさして問題ではなかった。そういえば、彼は老いて目を患ったのだと彼女はふと思い出した。
「はじめまして、でよろしかったかしら」
「そうですね、はじめまして。しかし私たちはすでに、お互いの物語の中でそれぞれに顔を合わせています。だからこそ、お久しぶりです、といった方が適切だったかもしれない」
 その柔らかい口ぶりは、彼女に好々爺な大学教授を連想させた。そうした好もしい雰囲気の教授は往々にして、意外なほど辛辣な授業をくり広げるということも彼女は知っていた。
「わたしは、あなたが長編小説を書きおろす日が来ることを夢見ていました」
「いきなり手厳しいですね」初老の男は照れくさそうに頭をかいた。「わたしはおのれの怠惰に敗残しましたが、ここでならば、復活戦のチャンスもありそうです」
 彼は彼女の手元にちらり目をやると、興味深いという顔をした。「お邪魔をしたようですね」
「とんでもない。これはただの手なぐさみです。少なくとも、いまは」
「しかし、いずれはこの書架に挿し挟まれることだろうと思います。私がここに来る道すがら、製本所という小部屋を見かけました。そこに持っていくと、あるいは対応してくれるかもしれない」
 ありがとう、と彼女は言った。「不思議なものですね、いつかあなたから直接的に指針をいただくことになるとは思わなかった」
「指針。そういえば、われわれはいくつかの共通するお題目を使って著述をしましたね。コンパスという言葉もそれに当たるでしょう」
 執筆の邪魔をしたことを本当に気にしているのだ、と彼女ははたと気がついた。次にお会いすることがあれば、その手なぐさみをぜひ見せてください、男はそう述べて、来た方向とは逆の薄闇に、また身体を溶かしていった。
 沈黙がふたたび彼女のもとに覆いかぶさった。鉛筆を握りなおして、彼女はなぜか先ほどの男ではなく、昔なじみの戦友──また別の同業者のことを想った。銃声で人生の最期を締めくくった彼女は、〈利用者〉としてここに招かれているのだろうか。
 きっとそうだ、と彼女は結論づけた。幸いなことに、彼女の脳裏にあったその光はその輝きをほとんど失うことなく、今も瞬いていた。黒鉛がえぐれるリズミカルな音が沈黙を刻み、悪筆が紙上でもう一度踊り出した。


二作品目:【一人称/いま:現在時制・むかし:過去時制】

 

 その時、わたしは自らの興奮に任せて筆を走らせていたように思います。文章の内容は、そうそう、新しく見つけた世界の合言葉についてです。とても危なっかしくて、薄暗闇の一寸先を手探りで進むような、ともすれば若い頃の、ほとばしる情熱の勢いのままに辺境の惑星のひねくれた英雄譚をものしていた時のような、楽しいひと時を過ごしていたのです。鉛筆の握り心地は久しぶりのもので、ずいぶん悪筆になってしまったことが恥ずかしい。かのダンセイニ卿に出会った頃、はじめて物語を書き出そうという時、ちっぽけな一人の新社会人として虐げられる運命にあることを悲観的に嘆く女子大生に対して、激励のお手紙を返そうとしていた夜。そうした熱狂の瞬間を今とつい重ねながら、手は止めません。
 新しく見つけた世界というのは、文字通り、気がつくと私の立っていた世界そのもののことを指します。用がなくとも書店を訪れ、図書館に重い荷物を返しにゆき、ソーシャル・ネットワーク上で新刊についての宣伝につい目を止めてしまう、そうした読書愛好家であれば一度は夢に見るような、天高くそびえる本棚が無数に連なる空間に、知らず入り込んでいたのです。
 不思議な空間で出会った人の多くは、ここを「図書館」と呼び親しんでいました。そして、ここにいる我々は「利用者」なのだと。面白いもので、「利用者」の多くは本を愛し、本に愛された類の人であるからか、「図書館」とは別の呼び名を考案している人にも少なからず出会いました。カタコンベ世界樹、少数派ながらオカルトや旧い心理学から引用する人もいました。
 わたしも独自の呼び名を見つけました。「森」です。書棚の大樹が並び、鬱蒼と暗く、静けさに満ちているこの世界のことをそう喩えたのでした。ですから、私は森の秘密を見つけた興奮に引きずられていたのです。
 そんな興奮状態のわたしですが、いやに鋭くなった五感が来訪者の足音を聞きつけます。この区画はすっかり人気のないものと考え、設置された共用テーブルに腰を下ろしていたのですが、それは勘違いだったようです。書き物をすこし隠すように身体に寄せ、来訪者の方へ目を向けました。
 暗い赤色の絨毯を踏みしめてやってきた男性の顔を見て、わたしは胸を撫で下ろしました。よくよく知っている人物だったからです。わたしは彼の著作を読んで、驚き、目を輝かせ、時には理解に苦しんだ経験がありました。難解で衒学的なその作風は、わたしの書き向かう方向とは必ずしも一致しないものでしたが、それでもなお、尊敬に値する先達であり、親しみの持てる同業者でもありました。
 そうした感慨は向こうにもあったのでしょう、わたしが挨拶をすると、彼は互いの物語の中で出会ったのだから、久しぶりと言った方が正しいのではないかと茶目っ気たっぷりに返してきたのでした。こうした態度のことを、わたしはよく知っています。それは優しめなおじいさんの教授に共通するもので、彼らは春の陽光のようなうららかで優しい口調で、意外なくらいに辛辣な言葉を吐くのです。
 あなたの長編小説が読める日を待ち望んでいた、と嘘偽りのない気持ちを述べると、彼は笑ってごまかし、そしてわたしの執筆を邪魔したことに恐縮しているようでした。わたしに「製本所」の場所を教えてくれると、彼は慌ただしく去っていってしまいました。
 会見がほんの一瞬で終わったことについては残念でしたが、ちょっとしたアドバイスをもらえたことと、驚くべき邂逅のあとにも「合言葉」についての一連の考えが脳裏から消えていなかったことは、幸運と言っていいでしょう。わたしは続きに取りかかります。
 彼との出会いで想起したのは、他でもない、様々の傑作をものした貴方のことです。貴方は人生の幕を自分で引いてしまいましたが、この出会いがあって、貴方もまた「利用者」としてここに招かれているのではないか、という希望を持ちました。
 熱狂は作文にあってはならないということがよくわかります。なぜって、まるで貴方への親しい手紙のような走り書きになっているのですから。書き終えてすぐ、厳しい推敲を課さねばなりません。
 森の中で貴方に出会える幸運を願いながら、わたしは続きを書き記してゆきます。

 

雑感

・そろそろ8月31日の子供のやり方ではついていかなくなってきた。文字数の大幅な超過と、合評会開始5分前の提出というそれだけで赤点の駄目っぷり。練習問題なんだからと割り切って中途で打ち切ってしまってもいいと後で気がついたんだけれど、書いている最中、これは一応でもオチまで持っていかなあかんな、という物語側からの要請のようなものを明確に感じたので。いや、それで遅れた言い訳にはならんが……。

 この点(物語に必要な分量を要請された痕跡)は他の参加者からも指摘されて、割と驚いた。妊娠線の跡のようなものだろうか。

・一読していただいたら大方見当がつくだろうが、その通りで、実在の小説家をモチーフに書いている。あからさまなワードチョイスもありますしね。ただ、一部のセンシティヴな実在の事件をエモーションの起点のひとつとして引用しているのは倫理的にあまり良くないわな、と反省しています。歴史にたいして厳正に向き合えていない姿勢の悪さ。

・「時間跳躍がいつ起こったか明確でない」という指摘が多数あり、その通り、これは手落ちでしたね。うっすら死後=未来の世界に軸足を置けば回想はすなわちすべて過去のものになるかな、というくらいの目算でした(誤り)。というか時間感覚が曖昧な異世界であることを強調しすぎて軸足そのものがふらついていましたね。とはいえ、一方で設問を面白くハックしている、という声があってちょっと愉快でした。

・一人称でですます調を使ったのも珍しがられてくすぐったかったですが、これも偶然の産物です。想定される作家のエッセイのイメージを基にエミュレートしたらこうなったというだけでした。実際こう書いているかは疑問が残りますが……

・「……これ最終回でやった方がよかった話では?」という指摘は、それはそうなんですが、追い詰められすぎて適当に掴んだ題材がこれというだけなので……。

・今回、雑感のだいぶ歯切れが悪い。

・色々な具材です。

ちゃんとぜんぶ読んでると思うなかれ。

・「これですか?」と尋ねられた作品は読んでなかったので、いずれ読もうと思います。

・以降の練習問題もがんばって取り組んでいきたい所存です。